2015年5月31日日曜日

遊就館

すっかり夏の暑さになりましたね。

先週、青年たちの主催で檀信徒さんたちと、
「靖国神社・皇居外苑・浅草」に行って参りました。

この行先を初めて聞いたとき、

「・・・『東京だよ、おっかさん』コースだな・・・」
と、ひとり思っていました。(笑)





しかしどこもかしこも、外国人観光客でいっぱい。

それに一番驚いてしまいました。(^-^;


今回、靖国神社はご参拝のみ。

時間の都合で遊就館に行けなかったのがとても残念でした。(>_<)



一人で靖国神社に行くときは、
私は必ず遊就館に立ち寄ります。

拝観された方はご存知のことと思いますが、
ここにはことに大東亜戦争で亡くなられた英霊の方々のたくさんの遺品などが展示されており、心惹かれるご遺品がいくつもございます。

ひとつご紹介したいと思います。

熊本県出身、陸軍歩兵中尉、立山英夫という方がおられました。
支那事変のおりに戦死。
そのご遺影はまだ幼ささえ残る、うら若い青年です。
出征してわずか三週間のことであったそうです。

その立山中尉の血まみれの軍服のポケットを見ると、
彼の母親の写真があり、
その写真の裏には母に対す思慕の長歌が書かれていました。



若し子の遠く行くあらば 帰りてその面(かお)見る迄は
出でても入りても子を憶ひ 寝ても覚めても子を念ず
己(おのれ)生あるその中は 子の身に代わらんこと思い
己死に行くその後は 子の身を守らんこと願ふ
 あゝ有難き母の恩 子は如何にして酬(むく)ゆべき
 あはれ地上に数知らぬ 衆生の中に唯一人
 母とかしづき母と呼ぶ 貴きえにし伏し拝む
母死に給うそのきはに 泣きて念ずる声あらば
生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
母息絶ゆるそのきはに 泣きて念ずる声あらば
生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
母息絶ゆるそのきはに 泣きておろがむ手のあらば
生きませるとき肩にあて 誠心こめてもみまつれ
 
お母さん お母さん お母さん 
お母さん お母さん お母さん 
お母さん お母さん お母さん 
お母さん お母さん お母さん 
お母さん お母さん お母さん 
お母さん お母さん お母さん 
お母さん お母さん お母さん 
お母さん お母さん お母さん 


24回書かれた「お母さん」の文字。
遊就館で初めて拝見したとき、
私はこのご遺品の前から動くことができませんでした。


この長歌が書かれた写真をご覧になられて立山中尉の上官、大江大佐は、
立山中尉の郷里でのご葬儀の時に次の内容の弔電を打たれました。

靖國の宮にみたまは鎮まるも
   おりおりかへれ 母の夢路に


先日の法話会のおりに、このことを檀信徒の皆さんにお話しをしたとき、
何人もの方たちが、目を真っ赤にして聴いていました。

そして「来年は遊就館を拝観する時間をとってもらいたい」という意見がたくさん出ました。


みなさんもぜひ靖国神社および遊就館に足を運び、
自身の「心」で、直に感じて頂きたいと思います。




















2 件のコメント:

  1. 木蘭様
    おはようございます。「母」という言葉にメッチャ弱いしまふくろうでございます。

    この種の歌は涙腺を刺激するので困ってしまいます。
    だれもが自分の母親、あるいは息子や娘と思いを重ねてしまうのでしょうね。
    鼻の奥のほうがツーンとしてきます。

    近頃は、学校でも近・現代史をまともに教えませんから、
    大東亜戦争に関して無知な若者が多いですね。

    サイパンのバンザイクリフでは約1万人の在留日本人がバンザイをしながら
    断崖から飛び降りました。海は血に染まったといいます。

    そのバンザイクリフの前で、日本の若い観光客がバンザイをしながら記念撮影を
    しているそうです。もちろんピースマークも忘れずに……

    ボクも激戦地のグァムやサイパンを観光で訪れたことがあります。
    今にして思えば、英霊たちが眠っている島で、浮かれはしゃいでいた自分が恥ずかしい。
    ピースマークではしゃぐ今どきの若者と同じです。ほんとうに恥ずかしい。

    戦争は悲しく悲惨なものです。二度と繰り返してはなりません。
    その点は、左翼の人たちと同じです。
    ではどうしたら戦争を防げるのか。

    現実主義者のボクは、しっかり軍備を整えるべし、と考えます。
    腕っぷしの強そうな者を襲うバカはいない、という理屈です。
    つまり現在国会で審議されている安全保障関連法案を早く通せ、ということです。

    筋肉マッチョの強い身体を作って、大切な「母」を護ってやる。かわいい子どもたちを
    護ってやる。心やさしい母を、二度と泣かせないようにする。

    「平和・平和」とお念仏を唱えるだけでは平和は来ません。
    日本が戦後70年間、曲がりなりにも平和で来られたのは、
    平和憲法があったからではありません。日米安保条約があったからなのです。

    「お母さん」という呼びかけは泣かせますね。
    「お父さん」では泣けないのは、なぜなんでしょうね。
    ああ、父よ、許したまえ。

    返信削除
    返信
    1. しまふくろうさま、こんばんは。

      この御遺品を目の当たりにした時、
      まるで時間が止まってしまったように思いました。

      長歌はもちろん素晴らしいものですが、
      私には「お母さん」の文字が目に焼き付いて・・・
      もうその時の自分の心をどうしたらいいのかさえ分からないくらいでした。

      当時は「忠孝」を身で読んでいらした方ばかり。
      親よりも先に逝くことは一番の親不孝。
      しかし一番したくない「親不孝」をしなければ、
      その大切な親や国を護ることはできない。

      親を悲しませたくないけれど・・・

      そんな辛い葛藤の中で、少しでも親を安心させたい思いが、
      「自分はお国のために戦ってきます」
      「靖国の英霊になるのですから、悲しまないで下さい」
      「靖国に会いに来て下さい」
      そんな言葉になっていったのかもしれません。

      親不孝など絶対にしたくなかった方々、
      そんな親思いの子供を持った方々、
      こうした方々こそ、
      「戦争なんか二度としてはならない」と、
      心の底から思っていたはずです。

      こんなに平和な世の中で生活させて頂きながら、
      「日本は戦争をしようとしている」
      「平和憲法を守れ」
      「総理大臣が靖国神社に参拝するとは何事ぞ」などと唱えている人たちは、
      かえって平和を乱しているようにしか私には思えません。

      当時の方々の思いを知り、共有し、そして感謝する。
      そして初めて「戦争は二度としてはならない」ことを心に刻むことができるのだと思います。

      「なめられない日本」にするには、
      「どこからでもかかってこいっ」くらいの強さを身につけなければならないと私も思います。
      隙を見せない日本になってほしいものですね。


      男の子が「お母さん」と呼びかけるように、
      女の子は「お父さん」と呼びかけるのも、私には胸がじんときますよ。(^-^)





      削除