2015年8月18日火曜日

戦争へ行った父の話

父は昭和十七年二月、歩兵として福岡県門司より上海に向かいました。

上海から杭州に行ったそうですが、案外綺麗な町で、市民は商売に忙しそうであったそうです。

まだ初年兵であった父は、戦地で初めて学ぶものも多かったようです。

軍人勅諭の聖訓五箇条というのがあり、
それを短い時間内で暗記させられたと言っていました。

一、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。
一、軍人は礼儀を正しくすべし。
一、軍人は武勇を尊ぶべし。
一、軍人は信義を重んずべし。
一、軍人は質素を旨とすべし。

軍規に違反すれば重い処罰があったそうです。

当時の日本兵の規律は世界一と聞いたことがあります。

農民や平民を装う便衣兵がいたので気が抜けなかったけれど、
一般市民をむやみやたらに殺戮することなどあり得ないと話していました。


敵兵との闘いのほか、
食料難による飢えやマラリヤ、赤痢、黄熱病などの病気、
そして現地での山蛭やサソリなどにな悩まされながら、
中国大陸を横断し、カンボジア、ラオスと約四年間歩き続けました。

ラオスのビンチャンでは、道や橋をかける作業を手伝ったそうです。
住民たちはとても親切で、関係はとても良好でした。

そこには約一週間の滞在でしたが、
飛行機もほとんど見かけることもなく、
戦争のさなかであることを忘れてしまうくらい平穏だったそうです。

滞在期間が終わり、川を下ってビルマの国境に行く指示があったのですが、
誰一人として口を開く者はいませんでした。

「みなこの部落から離れるのがつらく、後ろ髪引かれる思いであったからだ」と話していました。

出発という日、
部落の人たちが手に手に何かしらの道具を持って集まってきました。
どうするのかと思っていたところ、
彼らは「みんなで兵隊さんたちが乗るいかだを作る」というのです。

そしてまたたく間にいかだ船が出来上がり、
また住民たちがお別れにと、赤飯みたいなものや、蒸かした玉子に赤く色をつけたものを持ってきてくれました。

そして身振り手振りで、
「この戦争が終わったら、是非遊びにきてくれ」と父たちに伝えたそうです。

「この時は、感謝してもしきれないほど感動したよ。住所を聞いておけばよかったなぁ」と、しみじみ言っていました。

この時、すでに終戦を迎えていたのですが、
父たちはまだ知らず、
最終的にバンコクに結集せよとの指示でバンコクに行った時に
初めて日本が敗けたことを聞かされたといいます。

昭和21年3月頃のことでした。


約四年の間「いつ死ぬか」と毎日考えていた父たちは、
初めて「生きて帰る」ことを考えたといいます。


長い事、戦争の話をしなかった父ですが、
80歳を超えたころ、
師匠から「戦争の話をみんなに聞かせてあげなさい」といわれ、
ぽつぽつと話してくれたものです。

そんな父に師匠は、
「こうして戻ってきてくれた人たちが必死になって戦後日本の復興のために働いてくれたんだ。そして今がある。みんな、感謝しなきゃだめだぞ」と檀信徒さんたちに言って下さいました。

この言葉は父にとって何よりうれしかったのではないでしょうか。 






6 件のコメント:

  1. こんばんわ。御父上はバタ(歩兵)でしたか、うちの父方の祖父は日本蕎麦の職人で徴兵で歩兵として南方、大陸と転戦しましたが、食に関する技術があったので優遇されたそうです。

    戦争に関する記憶や記録は非常に大切です。有名な桶狭間の戦い、川中島の戦い(特に第四次川中島の戦い)などは文盲な人が多かったせいもあるのでしょうが、記録が少なく特に兵士の立場から書かれたものは見たことがありません、大東亜戦争は国民ほぼ全員が読み書きができたので、かなり回想録や記録は残っていますが、それでも分からない事も多いです。
    大岡昇平の「レイテ戦記」は記録文学としては最高の部類になるでしょうかね。

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  2. 木蘭様
    こんにちは。羽が汗でベトベト……飛べないしまふくろうでございます。
    大変ご無沙汰して申しわけありません。

    いいお話ですね。
    戦争世代は戦争の話をなかなかしたがらないものです。
    ボクの父も北支、南支と転戦したそうですが、
    詳しい話はあまりしてくれませんでした。

    おっしゃるように日本の兵隊さんが厳しい軍規をバカ正直に守っていましたから、
    たぶん世界一紳士的な軍隊だったと思います。

    それに比べ、ソビエトの兵隊なんかめちゃくちゃだったといいますからね。
    日本が戦争に負けて満州や朝鮮から引き揚げるということになった時、
    ソ連兵は女性と見るとやみくもに突進し、陵辱したといいます。
    教育もない地方のあんちゃんたちが前線に送られていましたから、
    軍規もヘチマもないのです。

    先に載せられたライダイハンの話も似たようなもので、
    韓国軍はヴェトナム女性を強姦しては虐殺していきました。
    彼らの犯した非人道的行為は人類史の恥ずべき汚点と言っていいでしょう。

    そんな人非人どもが、偉そうに歴史を直視しろだとか、
    従軍慰安婦に対して人道的責任をとれだとか、いっちょ前のことを言うのですから、
    まさに笑止と言うほかありません。

    ボクはロッテのチョコレートが大好きだったのですが、
    これからは明治のチョコレートにします。

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  3. Steinさま、こんばんは。(*^^*)

    ははぁ、歩兵のことを「バタ」というのですね。φ(..)メモメモ

    大東亜戦争に兵として行った方々は「誇り」をもって出兵しました。
    しかし敗戦となり、帰国してみれば今度は「悪者」扱い。
    なんのために戦い、仲間たちは命を落としたのかと、
    多くの方々は失意のどん底にあったと聞きました。

    そのような体験をされた場合、
    当時戦時中の話はしたくなかったのではないかしらと思われます。

    父も80歳を越えてから話してくれましたが、
    若い当時は話したくなかったのかもしれません。

    「大東亜戦争は侵略戦争ではなく、アジア諸国解放のための戦争だった」と師匠は私達に教えて下さいましたし、世間の風潮も少しずつ大東亜戦争の見直しがなされてきたことから、当時のことを話す機会ができた人も少なくはなかったことでしょう。

    戦後70年。
    もう戦争に行った方から直接お話を聞く機会はないに等しいことでしょう。

    でも家族が何かしら生前話していたことを聞いていたとしたら、
    少しでもいいから世に出して頂きたいものですね。

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  4. しまふくろうさま、こんばんは・(*^^*)
    羽は私は洗ってさしあげましょう。

    亀の子だわしでもいいですか。(笑)

    いえいえ、私がブログ更新をなかなかしないものだから、
    おいでになる機会が失われていたので、
    私のほうが謝らなければなりません。
    筆不精でまことに申し訳ございません。m(__)m

    「よいお話」と言って下さったことで、
    父も草葉の陰でとても喜んでいることと思います。

    仰せのように日本の兵隊はとても厳しい軍規をきちんと守っていました。
    夜、敵の空爆などで一般市民が巻き込まれることもあり、
    明るくなってから空爆のあった場所を見てみると、
    村人が何人も亡くなっていてかわいそうだったという話もしてくれました。

    ベトナム戦争での韓国軍の蛮行は、まったくもって許し難い行為です。
    韓国人はもっと正しく自国の歴史を学ぶべきですね。

    ロッテと朝日新聞の不買運動に賛成。(笑)

    明治の板チョコは大好きです。(*^^*)



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  5. 木蘭様

    軍隊の俗語ですが、バキは騎兵、ガラは砲兵、ミソは輜重兵という具合です。
    兵隊の世界に関しては伊藤桂一氏が自身の軍隊経験を基に様々な著書を出されているので非常に参考になります。

    日本の戦争責任がこの時期に話題になりますが、戦争責任という問題では実は海軍の責任に関してはあまり語られていません、海軍善玉史観、陸軍悪玉論が戦後に矍鑠とした海軍の生き残りによって広まったという事情もあります。

    戦死者の六割が実は餓死者であったのですが、シーレーン、制海権の確保は海軍の責任ですがその責任を果たさずに、台湾沖航空戦では世紀の大誤報で陸軍に嘘をつき、迷惑までかけています。支那大陸では終始、連合軍に対しては優勢を保持していました。

    開戦時の占領面積と終戦時の占領面積を比較すれば終戦時のほうが広かったのです。太平洋側の島々は海軍の連戦連敗で奪われましたが、大陸、インドネシアを占領しラバウルでは地下要塞まで構築していて連合軍が避けたほどです。

    海軍にアメリカの内通者がいたのではないかと思います。暗号が解読されていたといいますが、暗号書が奪われてもキーになるパスワードが分からないと解読できない仕組みになっていたので、内通者がいたとしか考えられませんね。

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  6. steinさま、おはようございます。(*^-^*)

    俗語にはいろいろとあるものなのですね。
    お勉強になります(*^^*)

    当時、陸軍、海軍でいろいろあった話は少しばかり聞いたことがあります。
    農家の長男であった私の伯父も赤紙が届き、ルソン島で餓死した一人です。
    非常につらい亡くなり方です。
    食べ物はおろか、水さえ飲めず、
    南の島でどんなにつらい思いをしながら亡くなったのでしょう。
    伯父だけでなく、餓死された多くの方々の無念さつらさを思うとき、
    たまらない気持になります。



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