昨日、泉岳寺に行きましたが、
「赤穂義士」について知らない信徒さんもいたため、
前もってビデオ鑑賞をしました。
私はまだ「血槍無双」のほうは観ていません。(^_^;)
いつかこっそり観てみようかなと。(笑)
今回観たのは「赤穂浪士」。
東映時代劇黄金期のオールスターが勢ぞろい。
大石内蔵助ー片岡千恵蔵
浅野内匠頭ー大川橋蔵
吉良上野介ー月形龍之介
他、
市川右太衛門・中村錦之助・中村賀津雄・大河内伝次郎・松方弘樹・
里見浩太郎・東千代之介・丘さとみ・木暮実千代などなど。
40代の女性が映画を観ながらも、
「どっちが斬られるんだっけ?」
すると同世代の男性が、
「浅野内匠頭じゃないか?」
私はすかさず、「違うでしょーっ」(笑)
殿中で刀傷沙汰を起こしてしまった浅野内匠頭を取り調べる役人が、
「乱心したからであろう? の?」
と聞きます。
吉良殿から執拗な嫌がらせや辱めを受けていた事を知っていたから、
「乱心」ということでなんとか切腹をまぬがれさせたいと思ったのです。
しかし内匠頭は、その深い心を感じながらも、
「乱心ということでは、私の意趣が立ちませぬ」
なんとも切ないシーンでした。
「風さそう花よりもなほわれはまた
春の名残りをいかにとやせん」
~風に吹かれ散り行く花も春を名残惜しく思うのであろうが、
その花よりも名残惜しく思う私は、いったいどうすればいい~
これは浅野内匠頭の辞世の句です。
せめてあの時、吉良殿を斬り捨ててしまえたなら、
こんなに心が残らずにすんだのでしょうけれど・・・。
この日より1年と9ヶ月後、
大石内蔵助を始めとする四十七士は、
松坂町の吉良殿の邸に討ち入り、
見事主君の仇を討つことと相成ります。
泉岳寺には、
主君浅野内匠頭の大きなお墓のすぐわきに大石内蔵助のお墓。
そして赤穂義士たちのお墓が整然と並んでいます。
君臣が並んで葬られているのを見ながら、
なんだか心が温かくなってくる気が致しました。
切腹し、
体から離れた魂は、
全員がそろって主君のもとに参じたことでしょう。
そして主君は、
素晴らしい臣下を持ったと喜んだことでしょう。
映画を観ながら涙し、
そして昨日は泉岳寺で、
またまた目頭が熱くなってしまった木蘭でございました。
木蘭様
返信削除東映時代劇を見て育ったしまふくろうでございます。
借金取りから逃れるため、わが家は毎週のように映画館に待避していました。
川越にあった「ホームラン劇場」がそれで、東映映画の常設館でした。
懐かしい名前が並んでいますね。
たぶん両方とも見ています。
ボクはポッチャリ型の丘さとみが好きでした。
彼女が出てくるとちっちゃな胸をときめかせたものです。
さて忠臣蔵ですが、日本の大衆には受けても外国では受けない、
という話を聞いたことがあります。リヴェンジするまでの間が空きすぎるのと、
大勢で寄ってたかってひとりの老人を殺すというストーリーが「残酷」で「卑怯」
だというのです。
大石内蔵助は「たかが喧嘩にすぎぬ」と言ったと、『浅野内匠頭家来口上』の中に
あるそうです。事件はごくつまらないことから起こった2人の武士のケンカに始まり、
人数を増やした大ゲンカで終わりました。
当時、武士の世界では「喧嘩両成敗」が常識でした。しかし、将軍綱吉が吉良の肩を
持ったがために異例の仕儀となってしまったのです。庶民は内匠頭に深く同情し、
事件後、1週間も経たないうちに事を扱った芝居が現れました。
誰もがこの義挙を賛美したわけではありません。知行欲しさのプロパガンダだ、
と冷たく断ずる議論もあったといいます。
ところで、内匠頭が辞世を詠んだという確証はないといいます。
ただの言い伝えかもしれないのです。
《「風さそふ」は常套句だが、「花よりもなほ我はまた」といふような拙劣な言いまわしが、
いかにもあはれである》と小林秀雄は言ってます。
内匠頭と内蔵助の行動が正しかったかどうかはわかりません。
ただ、近松門左衛門だけは「こいつは芝居になるぞ」とはっきり確信していました。
その確信の正しさは現代に生きる木蘭さんの涙を見れば明らかでしょう。
元禄の時代から平成の時代まで、この「復讐劇」は変わらず愛されてきたのです。
この「忠臣蔵」という復讐劇は「封建的=野蛮」と、現代のインテリたちが
言いそうな常套句を、みごとひっくり返してくれるのですから、
ボクみたいな封建人はついつい快哉を叫んでしまいます。
ボクも忠臣蔵は好きです。
仇討ちという、すこぶる原始的な復讐方法が好きなのです。
愛するものを殺されたら、ボクは裁判などに頼らず、この手で加害者に復讐したい。
「右の頬を打たれたら、左の頬も向けよ」とキリストは言いましたが、
そんな愚かでマヌケなことはたぶんできないでしょう。
「罪を憎んで人を憎まず」が近代法の精神です。
が、前近代人であるボクは、まず罪を犯した人を憎みます。激しく憎みます。
ボクみたいな野蛮な人間ばかりだと社会の秩序が保てそうにありませんが、
これがボクの偽らざる本音です。
僧籍の身である木蘭さんは、どんなふうに考えていますか?
しまふくろうさま、こんにちは。(*^^*)
返信削除きっと前世から記憶で、
ぽっちゃりした可愛らしい女性がお好きだったのかもしれませんね。(笑)
直情型の私に問われますか。(笑)
たぶんいろいろと創作されてある部分も多いだろうなという事は感じてはいます。
勧善懲悪の大好きな日本人ですから、
それなりの脚色があってこうした形になったのかもしれません。
ただ、
何故2年近く経ってまで討ち入りを果たさねばならなかったのかということを思う時、
そこには現代の私達には理解しえないほどの深い思いがあったからではと思うばかりです。
「感情」に流されただけで起きたものとも、
「理由」がなかったものとも思えません。
人には「善」の部分と「悪」の部分が必ずあります。
本物の浅野内匠頭も吉良殿も、
そのどちらもあったはずです。
いろいろな面があって当たり前だし、
どちらが「善」でどちらが「悪」とは言い切れるものではありません。
映画の中では「悪役」の吉良殿ですが、
べつに墓石を蹴り倒したくなるような憎しみまで持っていません。(笑)
近くにお墓があったら、
同じようにお線香を手向けに行ったことでしょう。
私と同じように思われる人は決して少なくないように思います。
先日の泉岳寺では、
お参りにこられる人がきれることがありませんでした。
その中には外人の姿も多く見受けられました。
今は日本の事を学ぶ外人が多いようですから、
きっと赤穂浪士に関しても勉強されているのかもしれませんね。
若い信者さんが、
「アメリカ映画で47ROUNINという映画があったみたいです。
日本ではあまり話題になりませんでしたが」と教えてくれました。
今は少しくらい忠臣蔵についての理解がなされているのかもしれませんね。
人は感情で流されるもの。
それをおさえるのは容易ではありません。
特に「我慢」を知らない現代人にとって、
憎しみや怒りはそうそうおさめられないでしょう。
ですから「右の頬をぶたれたら左の頬も」なんて~私も絶対に無理。(笑)
「罪を憎んで人を憎まず」も、
他人事だから言えるのでしょう。
仏教ではすべてに「因果」があることが説かれています。
例えば殺人。
殺す側にも殺される側にも、
それぞれに「業因」があるのです。
前世からのものかもしれないし、前々世のものかもしれないし、
それは私にも分かりません。
「因果は巡る糸車」という言葉がございますが、
こうした悲惨な出来事は、
「負の糸車」です。
命を落とされた人は前世から自分でそれなりの因を積んできてしまったからですし、
今生で人をあやめた人は、来世でその報いをうけねばなりません。
「すべて前世からの業因」
そのように思っています。
しかし頭ではわかっていても、
私自身が実際大切な人がそんな目にあったら、心からそのように思えるかは分かりません。
まだまだ未熟者ですし、
末法の衆生ですから、
もしかしたらしまふくろうさまより激しい気持ちが湧き起こるやもしれませんよ。(笑)