お日様が雲の上に行ったきり、
なかなかお顔を見せてくれません。
洗濯物もすっきりと乾かず、
それでも少し涼しいのはうれしいです。
多忙を極めた八月が終わり、
すこしのんびりな九月を迎えました。
そして今日は住職夫妻がおでかけなので、
もっとのんびりな一日を過ごしています。(笑)
秋の気配を感じると、必ず思い出す歌があります。
「きんもくせいの頃」という歌。
きっとどなたもご存じない曲だと思います。
これは1986年第31回のアマチュア音楽コンクール、
私たちは「ポプコン」と呼んでいた「ヤマハポピュラーソングコンテスト」で
入賞したもののそれきりとなってしまった曲なのです。
このコンテストでグランプリをとりデビューしたのは、
NSP、中島みゆき、長渕剛、チャゲ&飛鳥、渡辺真知子、八神純子などなど、
そうそうたる方々。
名曲がたくさん生まれましたが、
入賞どまりで世に出られなくても、やっぱりいい曲はあるものです。
もう30年ほど前になりますが、
コッキーポップという深夜ラジオで、ポプコンの本選を流していました。
「きんもくせいの頃」もたまたまこのラジオを録音していたので、
「いい曲だなぁ」と何回も繰り返して聴きました。
そのカセットはもうなく、
何度も繰り返してなんとか記憶にとどまったものを頭の中からひっぱりだして、
歌ってみました。
https://www.youtube.com/watch?v=H5owqbRBUaA
※誰もいないから、思い切り歌っていたら、
家の犬が私の歌に反応してか吠えていました。(笑)
2015年9月7日月曜日
2015年9月3日木曜日
仏前結婚式
涼しい毎日にやっと体が慣れてきたと思えば、
昨日はまたまた32℃。
山あり谷ありの気温差に、
体がどうしていいかわからないようです。
みなさん、体調にお気をつけてくださいね。
先月末、当寺院で結婚式が挙行されました。
お天気がとても心配でしたが、
なんとかもってくれてほっとひと安心。
檀信徒さんたちが駆けずり回りながらお手伝い。
新郎新婦やそのご親族がスポットをあびる一日ですが、
仏様は、
汗水たらして動いてくださった方々へ、
慈愛の目をやさしく注いでおられたことでしょう。
とにもかくにも無事に終了して~ただいま脱力中です。(笑)
今回初めて、ご親族の中に「外人さん」が。
新郎のいとこであるお嬢さんの婚約者ということで参加されていました。
見た目は日本人なのですが日系ではなく、
カナダ人だということでした。
流ちょうな日本語を話し、
漢字もある程度よくご存じでした。
でも「尼僧」を見るのは初めてだったそうで、
「女の人でもお坊さんになるのですか」と目を見開いて聞いてこられました。
お話を聞いていると、日本がとても大好きだということがわかります。
「いつか日本の国籍をとりたい。カナダでは二重国籍OKなんです」
日本国籍をとりたい理由のひとつに、
「戒名がほしいのです」
お塔婆に書かれる戒名がかっこいいと。(笑)
法衣姿も作務衣姿も気に入ったようで、
「イッツクール!」を連発。
帰り際に彼女を見ながら、
「ボク、仏前で結婚式したいです」とにこやかに言っていました。
今回で6回目の結婚式でしたが、
7回目は彼等かもしれませんね。(笑)
昨日はまたまた32℃。
山あり谷ありの気温差に、
体がどうしていいかわからないようです。
みなさん、体調にお気をつけてくださいね。
先月末、当寺院で結婚式が挙行されました。
お天気がとても心配でしたが、
なんとかもってくれてほっとひと安心。
檀信徒さんたちが駆けずり回りながらお手伝い。
新郎新婦やそのご親族がスポットをあびる一日ですが、
仏様は、
汗水たらして動いてくださった方々へ、
慈愛の目をやさしく注いでおられたことでしょう。
とにもかくにも無事に終了して~ただいま脱力中です。(笑)
今回初めて、ご親族の中に「外人さん」が。
新郎のいとこであるお嬢さんの婚約者ということで参加されていました。
見た目は日本人なのですが日系ではなく、
カナダ人だということでした。
流ちょうな日本語を話し、
漢字もある程度よくご存じでした。
でも「尼僧」を見るのは初めてだったそうで、
「女の人でもお坊さんになるのですか」と目を見開いて聞いてこられました。
お話を聞いていると、日本がとても大好きだということがわかります。
「いつか日本の国籍をとりたい。カナダでは二重国籍OKなんです」
日本国籍をとりたい理由のひとつに、
「戒名がほしいのです」
お塔婆に書かれる戒名がかっこいいと。(笑)
法衣姿も作務衣姿も気に入ったようで、
「イッツクール!」を連発。
帰り際に彼女を見ながら、
「ボク、仏前で結婚式したいです」とにこやかに言っていました。
今回で6回目の結婚式でしたが、
7回目は彼等かもしれませんね。(笑)
2015年8月18日火曜日
戦争へ行った父の話
父は昭和十七年二月、歩兵として福岡県門司より上海に向かいました。
上海から杭州に行ったそうですが、案外綺麗な町で、市民は商売に忙しそうであったそうです。
まだ初年兵であった父は、戦地で初めて学ぶものも多かったようです。
軍人勅諭の聖訓五箇条というのがあり、
それを短い時間内で暗記させられたと言っていました。
一、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。
一、軍人は礼儀を正しくすべし。
一、軍人は武勇を尊ぶべし。
一、軍人は信義を重んずべし。
一、軍人は質素を旨とすべし。
軍規に違反すれば重い処罰があったそうです。
当時の日本兵の規律は世界一と聞いたことがあります。
農民や平民を装う便衣兵がいたので気が抜けなかったけれど、
一般市民をむやみやたらに殺戮することなどあり得ないと話していました。
敵兵との闘いのほか、
食料難による飢えやマラリヤ、赤痢、黄熱病などの病気、
そして現地での山蛭やサソリなどにな悩まされながら、
中国大陸を横断し、カンボジア、ラオスと約四年間歩き続けました。
ラオスのビンチャンでは、道や橋をかける作業を手伝ったそうです。
住民たちはとても親切で、関係はとても良好でした。
そこには約一週間の滞在でしたが、
飛行機もほとんど見かけることもなく、
戦争のさなかであることを忘れてしまうくらい平穏だったそうです。
滞在期間が終わり、川を下ってビルマの国境に行く指示があったのですが、
誰一人として口を開く者はいませんでした。
「みなこの部落から離れるのがつらく、後ろ髪引かれる思いであったからだ」と話していました。
出発という日、
部落の人たちが手に手に何かしらの道具を持って集まってきました。
どうするのかと思っていたところ、
彼らは「みんなで兵隊さんたちが乗るいかだを作る」というのです。
そしてまたたく間にいかだ船が出来上がり、
また住民たちがお別れにと、赤飯みたいなものや、蒸かした玉子に赤く色をつけたものを持ってきてくれました。
そして身振り手振りで、
「この戦争が終わったら、是非遊びにきてくれ」と父たちに伝えたそうです。
「この時は、感謝してもしきれないほど感動したよ。住所を聞いておけばよかったなぁ」と、しみじみ言っていました。
この時、すでに終戦を迎えていたのですが、
父たちはまだ知らず、
最終的にバンコクに結集せよとの指示でバンコクに行った時に
初めて日本が敗けたことを聞かされたといいます。
昭和21年3月頃のことでした。
約四年の間「いつ死ぬか」と毎日考えていた父たちは、
初めて「生きて帰る」ことを考えたといいます。
長い事、戦争の話をしなかった父ですが、
80歳を超えたころ、
師匠から「戦争の話をみんなに聞かせてあげなさい」といわれ、
ぽつぽつと話してくれたものです。
そんな父に師匠は、
「こうして戻ってきてくれた人たちが必死になって戦後日本の復興のために働いてくれたんだ。そして今がある。みんな、感謝しなきゃだめだぞ」と檀信徒さんたちに言って下さいました。
この言葉は父にとって何よりうれしかったのではないでしょうか。
上海から杭州に行ったそうですが、案外綺麗な町で、市民は商売に忙しそうであったそうです。
まだ初年兵であった父は、戦地で初めて学ぶものも多かったようです。
軍人勅諭の聖訓五箇条というのがあり、
それを短い時間内で暗記させられたと言っていました。
一、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。
一、軍人は礼儀を正しくすべし。
一、軍人は武勇を尊ぶべし。
一、軍人は信義を重んずべし。
一、軍人は質素を旨とすべし。
軍規に違反すれば重い処罰があったそうです。
当時の日本兵の規律は世界一と聞いたことがあります。
農民や平民を装う便衣兵がいたので気が抜けなかったけれど、
一般市民をむやみやたらに殺戮することなどあり得ないと話していました。
敵兵との闘いのほか、
食料難による飢えやマラリヤ、赤痢、黄熱病などの病気、
そして現地での山蛭やサソリなどにな悩まされながら、
中国大陸を横断し、カンボジア、ラオスと約四年間歩き続けました。
ラオスのビンチャンでは、道や橋をかける作業を手伝ったそうです。
住民たちはとても親切で、関係はとても良好でした。
そこには約一週間の滞在でしたが、
飛行機もほとんど見かけることもなく、
戦争のさなかであることを忘れてしまうくらい平穏だったそうです。
滞在期間が終わり、川を下ってビルマの国境に行く指示があったのですが、
誰一人として口を開く者はいませんでした。
「みなこの部落から離れるのがつらく、後ろ髪引かれる思いであったからだ」と話していました。
出発という日、
部落の人たちが手に手に何かしらの道具を持って集まってきました。
どうするのかと思っていたところ、
彼らは「みんなで兵隊さんたちが乗るいかだを作る」というのです。
そしてまたたく間にいかだ船が出来上がり、
また住民たちがお別れにと、赤飯みたいなものや、蒸かした玉子に赤く色をつけたものを持ってきてくれました。
そして身振り手振りで、
「この戦争が終わったら、是非遊びにきてくれ」と父たちに伝えたそうです。
「この時は、感謝してもしきれないほど感動したよ。住所を聞いておけばよかったなぁ」と、しみじみ言っていました。
この時、すでに終戦を迎えていたのですが、
父たちはまだ知らず、
最終的にバンコクに結集せよとの指示でバンコクに行った時に
初めて日本が敗けたことを聞かされたといいます。
昭和21年3月頃のことでした。
約四年の間「いつ死ぬか」と毎日考えていた父たちは、
初めて「生きて帰る」ことを考えたといいます。
長い事、戦争の話をしなかった父ですが、
80歳を超えたころ、
師匠から「戦争の話をみんなに聞かせてあげなさい」といわれ、
ぽつぽつと話してくれたものです。
そんな父に師匠は、
「こうして戻ってきてくれた人たちが必死になって戦後日本の復興のために働いてくれたんだ。そして今がある。みんな、感謝しなきゃだめだぞ」と檀信徒さんたちに言って下さいました。
この言葉は父にとって何よりうれしかったのではないでしょうか。
ライダイハン
お盆が過ぎると、
急に風が涼しくなってきたように感じます。
近所の農家ではすでに稲刈りが始まり、
「秋」らしい景色が見られるようになりました。
これから小さな秋を見つけながら過ごしていきたいと思います。
私が子供の頃、ベトナムでは戦争が続いていました。
急に風が涼しくなってきたように感じます。
近所の農家ではすでに稲刈りが始まり、
「秋」らしい景色が見られるようになりました。
これから小さな秋を見つけながら過ごしていきたいと思います。
私が子供の頃、ベトナムでは戦争が続いていました。
「ベトナムの独立と統一をめぐる戦争。1960年結成の南ベトナム解放民族戦線は,北ベトナムの支援のもとに,南ベトナム軍およびこれを支援するアメリカ軍と戦い,69年臨時革命政府を樹立。73年和平協定が成立しアメリカ軍が撤退,75年南ベトナム政府が崩壊,翌年に南北が統一された。」
(weblioより)
自分が生まれる前年から中学三年にいたるまでの間に続いていた戦争だったのに、
まったく無関心に近い状態であったと思います。
後に「枯葉剤」による奇形児が沢山生まれたことを知ったときはとてもショックでしたが、それでも「戦争」という概念がとても薄かったように思います。
「戦争」について考えることもなく青春時代を過ごしてきました。
自分たちには関係ないとさえ思っていたものです。
その悲惨さを知ろうともせずに・・・。
大東亜戦争については、皆さんのすでにご存じのことだと思うのでここでは書きません。
約15年続いたベトナム戦争で、ことに韓国軍によって何が行われたのか。
多くの人がしらなければならないと思います。
名護和行・真実
多くの婦女子、子供、老人が韓国軍によって惨殺されました。
その容赦のない殺戮の仕方はあまりにもむごいものです。
また多くの女性がレイプされ、
あるいはそのまま殺され、命が助かった人も、
のちに韓国兵の子供を生み、
それは「ライダイハン」と言われ、諸説がありますが一万人を超すとも言われています。
またベトナム女性は美人が多いため、
韓国軍の「慰安婦」とされていたとも言われています。
今でも性犯罪が世界一多いといわれる韓国。
日本の慰安婦についてしのごのいえる立場なのでしょうか。
当時、日本では慰安婦を募集し、
きちんと大金を払って働いてもらいました。
決して強制ではなかったし、
韓国の慰安婦については戦後もきちんと賠償金を払っています。
昔、石原莞爾に関する本を読みましたが、
石原将軍が満洲を離れる時にたくさんの人々が別れを惜しんで集まり、
その中に慰安婦の女性たちも来ていたそうです。
石原将軍は彼女たちひとりひとりの手を握り、
お礼を述べていたということが書いてあったと、うろ覚えですが記憶しています。
ライダイハンとして生まれた子供たちは、
「敵軍の子だ」と、ひと゛い迫害を受けたそうです。
子供には罪はありません。
悲しく悔しく、そして辛いお話ですね。
まったく無関心に近い状態であったと思います。
後に「枯葉剤」による奇形児が沢山生まれたことを知ったときはとてもショックでしたが、それでも「戦争」という概念がとても薄かったように思います。
「戦争」について考えることもなく青春時代を過ごしてきました。
自分たちには関係ないとさえ思っていたものです。
その悲惨さを知ろうともせずに・・・。
大東亜戦争については、皆さんのすでにご存じのことだと思うのでここでは書きません。
約15年続いたベトナム戦争で、ことに韓国軍によって何が行われたのか。
多くの人がしらなければならないと思います。
名護和行・真実
多くの婦女子、子供、老人が韓国軍によって惨殺されました。
その容赦のない殺戮の仕方はあまりにもむごいものです。
2015年7月9日木曜日
虫のお話
梅雨とはいえ、
こんなに降らなくてもいいんじゃないの?と言いたくなるぐらい雨がふりましたね。
また十数年ぶりのトリプル台風も来ているとか。
あまり歓迎したくないお客様です。(◎_◎;)
まだ梅雨に入ったばかりの頃、
母屋の壁面に一匹のヤンマが止まっていました。
その羽はセロファンのように透き通っていて、
なんと美しいこと。
まだ羽化したばかりのようでした。
まもなくまだ力のない羽を懸命に動かしながら飛んでいきました。
今の季節は境内の木々の選定などがありますので、
実にいろんな「虫」と遭遇致します。
蜂、毛虫、蛾などなど。
見た目は怖かったり気持ち悪かったりする虫ばかり。
近づくのも嫌だという人が多いものです。
ただ私の場合、
「刺すか刺さないか」「毒があるか無いか」
ということがとっても重要なので、
遭遇した知らない虫については、作業が終わってからネットで検索。
お風呂で汗を流してからお堂でお勤め。
夕飯を頂いたあとでのネット検索の時間になりますが、
「ご飯食べたあとで、こんな検索している人ってあまりないだろうなぁ」
などと独り言を言いながら、毛虫君たちの画像をスクロール。(笑)
するといろいろな事が分かりました。
スズメバチに二度めに刺されたら必ず病院へ、というのは結構知っている方が多いと思いますが、
「一度目にスズメバチに刺されたけど、二度目が足長蜂だから大丈夫」
ではないそうです。
足長蜂とスズメバチの毒は似ているので、やはり病院へは行ったほうがよいとのこと。
私は6月21日に足長蜂に刺されてしまったので、
今年いっぱいはとくに気を付けていようと心に誓いました。(^-^;
また境内でよく見かけた毒々しい毛虫君には毒性がなかったことが判明。
触ることはできませんが、
近くでみかけても恐れおののくことがなくなり、
スムーズに作業することができました。
今まで毛虫がいやしないかとびくびくしながらやっていましたから。(^-^;
春、夏になると増えるのが蜘蛛。
毎朝、必ずといっていいほど蜘蛛の巣に頭やら顔やらがひっかかります。(;´Д`)
ついた蜘蛛の巣を取りながら、
「ちょっと~。ここに作るのはやめて~」とぶつぶつ。
でもまた次の日、
同じような場所でひっかかっているんですけれどね。(笑)
「朝蜘蛛は縁起がいい」「夜蜘蛛は縁起が悪い」
なんて誰が言ったのでしょう。
同じ場所に巣を作っている蜘蛛にとっては迷惑千万なお話。
「朝からずっといるのにさ~夜になったら縁起が悪いって退治されちゃったよ」
なんて。
子供の頃、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を読んだせいでしょうか、
蜘蛛を退治することがとっても嫌で。
でも周りの人達はみんな平気。
小さな蜘蛛はティッシュでぽいっ。
大きな蜘蛛はハエ叩きでばしっ。
その姿を見つつ、
もしあの小説が蜘蛛てはなく、ゴキブリが題材だったとしたら、
私はゴキブリを退治しないで見逃すのだろうか…
自問自答してみました。
でもやっぱり、ゴキブリだけは退治しちゃうかも。(笑)
こんなに降らなくてもいいんじゃないの?と言いたくなるぐらい雨がふりましたね。
また十数年ぶりのトリプル台風も来ているとか。
あまり歓迎したくないお客様です。(◎_◎;)
まだ梅雨に入ったばかりの頃、
母屋の壁面に一匹のヤンマが止まっていました。
その羽はセロファンのように透き通っていて、
なんと美しいこと。
まもなくまだ力のない羽を懸命に動かしながら飛んでいきました。
今の季節は境内の木々の選定などがありますので、
実にいろんな「虫」と遭遇致します。
蜂、毛虫、蛾などなど。
見た目は怖かったり気持ち悪かったりする虫ばかり。
近づくのも嫌だという人が多いものです。
ただ私の場合、
「刺すか刺さないか」「毒があるか無いか」
ということがとっても重要なので、
遭遇した知らない虫については、作業が終わってからネットで検索。
お風呂で汗を流してからお堂でお勤め。
夕飯を頂いたあとでのネット検索の時間になりますが、
「ご飯食べたあとで、こんな検索している人ってあまりないだろうなぁ」
などと独り言を言いながら、毛虫君たちの画像をスクロール。(笑)
するといろいろな事が分かりました。
スズメバチに二度めに刺されたら必ず病院へ、というのは結構知っている方が多いと思いますが、
「一度目にスズメバチに刺されたけど、二度目が足長蜂だから大丈夫」
ではないそうです。
足長蜂とスズメバチの毒は似ているので、やはり病院へは行ったほうがよいとのこと。
私は6月21日に足長蜂に刺されてしまったので、
今年いっぱいはとくに気を付けていようと心に誓いました。(^-^;
また境内でよく見かけた毒々しい毛虫君には毒性がなかったことが判明。
触ることはできませんが、
近くでみかけても恐れおののくことがなくなり、
スムーズに作業することができました。
今まで毛虫がいやしないかとびくびくしながらやっていましたから。(^-^;
春、夏になると増えるのが蜘蛛。
毎朝、必ずといっていいほど蜘蛛の巣に頭やら顔やらがひっかかります。(;´Д`)
ついた蜘蛛の巣を取りながら、
「ちょっと~。ここに作るのはやめて~」とぶつぶつ。
でもまた次の日、
同じような場所でひっかかっているんですけれどね。(笑)
「朝蜘蛛は縁起がいい」「夜蜘蛛は縁起が悪い」
なんて誰が言ったのでしょう。
同じ場所に巣を作っている蜘蛛にとっては迷惑千万なお話。
「朝からずっといるのにさ~夜になったら縁起が悪いって退治されちゃったよ」
なんて。
子供の頃、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を読んだせいでしょうか、
蜘蛛を退治することがとっても嫌で。
でも周りの人達はみんな平気。
小さな蜘蛛はティッシュでぽいっ。
大きな蜘蛛はハエ叩きでばしっ。
その姿を見つつ、
もしあの小説が蜘蛛てはなく、ゴキブリが題材だったとしたら、
私はゴキブリを退治しないで見逃すのだろうか…
自問自答してみました。
でもやっぱり、ゴキブリだけは退治しちゃうかも。(笑)
2015年5月31日日曜日
遊就館
すっかり夏の暑さになりましたね。
先週、青年たちの主催で檀信徒さんたちと、
「靖国神社・皇居外苑・浅草」に行って参りました。
この行先を初めて聞いたとき、
「・・・『東京だよ、おっかさん』コースだな・・・」
と、ひとり思っていました。(笑)
しかしどこもかしこも、外国人観光客でいっぱい。
それに一番驚いてしまいました。(^-^;
今回、靖国神社はご参拝のみ。
時間の都合で遊就館に行けなかったのがとても残念でした。(>_<)
一人で靖国神社に行くときは、
私は必ず遊就館に立ち寄ります。
拝観された方はご存知のことと思いますが、
ここにはことに大東亜戦争で亡くなられた英霊の方々のたくさんの遺品などが展示されており、心惹かれるご遺品がいくつもございます。
ひとつご紹介したいと思います。
熊本県出身、陸軍歩兵中尉、立山英夫という方がおられました。
支那事変のおりに戦死。
そのご遺影はまだ幼ささえ残る、うら若い青年です。
出征してわずか三週間のことであったそうです。
その立山中尉の血まみれの軍服のポケットを見ると、
彼の母親の写真があり、
その写真の裏には母に対す思慕の長歌が書かれていました。
若し子の遠く行くあらば 帰りてその面(かお)見る迄は
出でても入りても子を憶ひ 寝ても覚めても子を念ず
己(おのれ)生あるその中は 子の身に代わらんこと思い
己死に行くその後は 子の身を守らんこと願ふ
あゝ有難き母の恩 子は如何にして酬(むく)ゆべき
あはれ地上に数知らぬ 衆生の中に唯一人
母とかしづき母と呼ぶ 貴きえにし伏し拝む
母死に給うそのきはに 泣きて念ずる声あらば
生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
母息絶ゆるそのきはに 泣きて念ずる声あらば
生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
母息絶ゆるそのきはに 泣きておろがむ手のあらば
生きませるとき肩にあて 誠心こめてもみまつれ
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
24回書かれた「お母さん」の文字。
遊就館で初めて拝見したとき、
私はこのご遺品の前から動くことができませんでした。
この長歌が書かれた写真をご覧になられて立山中尉の上官、大江大佐は、
立山中尉の郷里でのご葬儀の時に次の内容の弔電を打たれました。
靖國の宮にみたまは鎮まるも
おりおりかへれ 母の夢路に
先日の法話会のおりに、このことを檀信徒の皆さんにお話しをしたとき、
何人もの方たちが、目を真っ赤にして聴いていました。
そして「来年は遊就館を拝観する時間をとってもらいたい」という意見がたくさん出ました。
みなさんもぜひ靖国神社および遊就館に足を運び、
自身の「心」で、直に感じて頂きたいと思います。
先週、青年たちの主催で檀信徒さんたちと、
「靖国神社・皇居外苑・浅草」に行って参りました。
この行先を初めて聞いたとき、
「・・・『東京だよ、おっかさん』コースだな・・・」
と、ひとり思っていました。(笑)
しかしどこもかしこも、外国人観光客でいっぱい。
それに一番驚いてしまいました。(^-^;
今回、靖国神社はご参拝のみ。
時間の都合で遊就館に行けなかったのがとても残念でした。(>_<)
一人で靖国神社に行くときは、
私は必ず遊就館に立ち寄ります。
拝観された方はご存知のことと思いますが、
ここにはことに大東亜戦争で亡くなられた英霊の方々のたくさんの遺品などが展示されており、心惹かれるご遺品がいくつもございます。
ひとつご紹介したいと思います。
熊本県出身、陸軍歩兵中尉、立山英夫という方がおられました。
支那事変のおりに戦死。
そのご遺影はまだ幼ささえ残る、うら若い青年です。
出征してわずか三週間のことであったそうです。
その立山中尉の血まみれの軍服のポケットを見ると、
彼の母親の写真があり、
その写真の裏には母に対す思慕の長歌が書かれていました。
若し子の遠く行くあらば 帰りてその面(かお)見る迄は
出でても入りても子を憶ひ 寝ても覚めても子を念ず
己(おのれ)生あるその中は 子の身に代わらんこと思い
己死に行くその後は 子の身を守らんこと願ふ
あゝ有難き母の恩 子は如何にして酬(むく)ゆべき
あはれ地上に数知らぬ 衆生の中に唯一人
母とかしづき母と呼ぶ 貴きえにし伏し拝む
母死に給うそのきはに 泣きて念ずる声あらば
生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
母息絶ゆるそのきはに 泣きて念ずる声あらば
生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
母息絶ゆるそのきはに 泣きておろがむ手のあらば
生きませるとき肩にあて 誠心こめてもみまつれ
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
24回書かれた「お母さん」の文字。
遊就館で初めて拝見したとき、
私はこのご遺品の前から動くことができませんでした。
この長歌が書かれた写真をご覧になられて立山中尉の上官、大江大佐は、
立山中尉の郷里でのご葬儀の時に次の内容の弔電を打たれました。
靖國の宮にみたまは鎮まるも
おりおりかへれ 母の夢路に
先日の法話会のおりに、このことを檀信徒の皆さんにお話しをしたとき、
何人もの方たちが、目を真っ赤にして聴いていました。
そして「来年は遊就館を拝観する時間をとってもらいたい」という意見がたくさん出ました。
みなさんもぜひ靖国神社および遊就館に足を運び、
自身の「心」で、直に感じて頂きたいと思います。
2015年5月17日日曜日
幸せの形
今月半ばころからホトトギスが啼きだしました。
きょっきょっきょきょきょきょ♪
その合間に鶯が、ほーほけきょっ♪
山ではコジュケイが、ちょっとこーい、ちょっとこーい♪
ほかにも山鳩、スズメ、カラス、ヒヨドリ、ツバメなどなど。
空が明るくなるころから日没まで、
それはそれは賑やかといおうかやかましいといおうか。(笑)
「東京ではカラスばかりで、スズメの声もしないわよ」と知人から聞いたことがあります。
数年前の五月、姪の結婚式に呼ばれ、
新宿の京王プラザホテルに宿泊したとき、
朝、たしかにカラスの声しか耳にしませんでした。
立ち並ぶビルの間から見える朝陽は、
私が毎日見ているものと同じはずなのですが、
なんだか違う光に感じてなりませんでした。
「鳥がいない、緑がないビルの森は、
人間しか住めない場所。
たしかに街路樹はある。
時折カラス以外の鳥もいる。
でも、
都会は自然があることが不自然な場所。
便利だけれど、
今の私には合わない場所。」
東京に生まれ育ったのに、
もう東京には住めないなぁと思いました。
前述したとおり、
毎日自然界はかまびすしいものですが、
それを五感で確かに感じとっていることが、
もう私にとって「自然」になっているのです。
お金持ちで、
好きなものをなんでも買えて、
豪邸に住んでいて、
豪勢なものを食べて、
高級な車に乗って、
ブランド品を身に着けて、
大都会に住んで。
でも私の幸せはそこには微塵もありません。
お金がなくても、
近所の農家のおばちゃんからもらった野菜を食べて、
おんぼろ自転車に乗って、
ほとんど毎日のように作業服を着て、
自然の中で過ごす。
空の色。
雲の形。
山々の移ろい。
そんな中に私のささやかな幸せがたくさんあります。
「幸せの形」は人それぞれ。
みなさんの「幸せ」はどんな形なのでしょうね。
今日は夕焼けに美しく染まるシラサギを見かけました。
心に深くしみいるような光景を
私は一生忘れることはないでしょう。
きょっきょっきょきょきょきょ♪
その合間に鶯が、ほーほけきょっ♪
山ではコジュケイが、ちょっとこーい、ちょっとこーい♪
ほかにも山鳩、スズメ、カラス、ヒヨドリ、ツバメなどなど。
空が明るくなるころから日没まで、
それはそれは賑やかといおうかやかましいといおうか。(笑)
「東京ではカラスばかりで、スズメの声もしないわよ」と知人から聞いたことがあります。
数年前の五月、姪の結婚式に呼ばれ、
新宿の京王プラザホテルに宿泊したとき、
朝、たしかにカラスの声しか耳にしませんでした。
立ち並ぶビルの間から見える朝陽は、
私が毎日見ているものと同じはずなのですが、
なんだか違う光に感じてなりませんでした。
「鳥がいない、緑がないビルの森は、
人間しか住めない場所。
たしかに街路樹はある。
時折カラス以外の鳥もいる。
でも、
都会は自然があることが不自然な場所。
便利だけれど、
今の私には合わない場所。」
東京に生まれ育ったのに、
もう東京には住めないなぁと思いました。
前述したとおり、
毎日自然界はかまびすしいものですが、
それを五感で確かに感じとっていることが、
もう私にとって「自然」になっているのです。
お金持ちで、
好きなものをなんでも買えて、
豪邸に住んでいて、
豪勢なものを食べて、
高級な車に乗って、
ブランド品を身に着けて、
大都会に住んで。
でも私の幸せはそこには微塵もありません。
お金がなくても、
近所の農家のおばちゃんからもらった野菜を食べて、
おんぼろ自転車に乗って、
ほとんど毎日のように作業服を着て、
自然の中で過ごす。
空の色。
雲の形。
山々の移ろい。
そんな中に私のささやかな幸せがたくさんあります。
「幸せの形」は人それぞれ。
みなさんの「幸せ」はどんな形なのでしょうね。
今日は夕焼けに美しく染まるシラサギを見かけました。
心に深くしみいるような光景を
私は一生忘れることはないでしょう。
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